昭和41年7月3日 朝の御理解
                             末永静行(№41-145-B-2)


過ぎたるは及ばざるが如しと言うような事を申しますですね、信心ばかりはどんなに過ぎてもいいんだと、私は思います、けれども、その、過ぎたるは及ばざるは如しと言うふうにもれない、まあ、それと同じような意味での信心は信心じゃないです。どこまでも、周囲との調和とでも申しますか、神様が求め給うとでも申しますか、そう言う信心ならば、これは過ぎるという事はありません、それを実意丁寧に受けていき、また成して行く事が信心なんですから、けれども、勢い余って過ぎると言うのはやはりこれは良くありません。
これは初代の小倉の桂松平先生がそれこそ、様々な難行苦行をしてくださった、九州の道を取ってくださる、元を取って開くものは、それこそ、あられぬ行をするけれどもと仰るが、確かにあられぬ行もなさったけれども、あられぬ行と言うてもです、やはり、ご真意に叶わぬもの、いわば、この過ぎたるもの、それはもう及ばざるが如しである、せんほうがよかと言うような修行もあるという事、だから、もうそれはもう修行じゃないという事にもなる、ね。
このお道の、教祖の神様のご信心と言うのはそんこんところのけじめを致しました、毎日日参しておる人には、どうもお参りし過ぎるじゃろう、三日に一遍ぐらい、そう言うもんじゃない。信心にはもうこれでよいと言う事はない、どんなに過ぎても良い、けれども、私共は信心を間違えては、いわゆる、過ぎたるという事になってしまうような場合もあるからここんところを考えておかなければならん。
ある時に、寒中に水氷をかかるだけではなくてから、川に水をつかえて、その川を何回かこう泳いで踊ったり、また、言ったりきたりをなさる修行をなさった、桂先生が。ね。そしたら神様がです、桂松平その修行は神が受け取らんと仰る、神様が受け取ってくださらんような修行はつまらんです。ね、寒中に、いわば、寒い最中にですね、川の中につってから一心不乱に神様を念ずると、言うのですから、神様想いだけれどもです、そんな修行は神様が受け取らんと仰る、そこんところが、まあ、ある意味合いでは、本当にがむしゃらにそのご修行をなさったんですね、けれども、それだけは受け取らんと仰る、何回目かの川を泳ぎ歌ったり、されておる内にとうとう感覚がなくなってしもうた体が、そして、危なく一命を落とされるといったような事があった、これからは慎めよと、神が許さん修行は絶対するなよというて、その神様から厳しくお伝えがあったという事が御伝記に残っております。これなんかは過ぎたるは及ばざるが如しですね。
いかに、それはもっともらしい、いかにそれは立派らしい、けれども、そこは人間ですから周囲との関連性と言うか、周囲との調和と言うか、そう言うようなものも保たせて頂いてから、楽器で言うならば、まあ、(           )まあ、三味線なら三味線で申しますならば、三本のその糸と言うものがです、本当にその調和が足ろうとかなきゃいかん、それにはまず一の糸の調子が整うたら、二も、三も、やはりそれにおうとかなければいかんのだけれども、その、それは無視してしまって、自分の糸だけを高くあげようとしたり、低くしたりするところにです、全然ちょうわ(     )やかましい音になってしまう。
これは私の知った方なんですけれども、非常に熱心な小学校の女の先生であった、もう本当に、子供の私共が見ても本当に教育者というのは、あーいうふうでなからにゃなるまいというほどに、非常に親にも子供にも評判の良い先生であった、あまり教育に熱心なあまりにあちらこちらから縁談があったんだけれども、それも断って、とにかく子供達の教育、それが自分の生きがいだと、楽しみだと、と言うようにして(      )子供達もやっぱり喜びます、いわゆる先生で通った。
ところが、その方が三十いくつになられた頃でしょうか、いわゆる、人間ですから虫が付いた、それも相手の人が、まあ、言うなら、低級ながいせの方が、と志しなられて、そして、教員を失敗されて、本当に気の毒な結果になられた人は、ね、これなんかは過ぎたるは及ばざるが如しになってしまった訳ですね。
だから、人生の幸せというものをです、本当に教育一筋にですね、あれを頂き抜かれたら素晴らしかったかもしれませんけれども、ね、そこに、本当に人間の幸せと言うものがですね、その教育なら教育、そのことにあいまって行かなければ、ね、信心でもそうです、そう言う人が時々ありますですね、もうただ修行さえすればいい、それで、結果においては、まあ、本当にあちらこちらにも迷惑をかけてといったようなものがあります、その者はよくよく反省させて頂くと、やはり過ぎておる、結局及ばざるが如しと言う結果になったりしておる場合がございます。ね。
ですから、これはです、もう、本当に神様が求め給うと言うものならばです、これはもうどれだけの事を成して行っても過ぎたるという事はありゃしません、そうでしょう、神様が求められる、求められるのですから、ね、例えて言うならば、断食なら断食と言う修行を致しましょうか、ね、神様が求められる、ね、与えられない、神様が断食の修行を求めござるんだと思うて、それは、それは、二十日、なら一ヶ月になっても、それが(        )なってもです、それは尊いと思うんですね。
ところがこれが、食べ物はあるけれどもです、自分の一つの我情と言うか、我をもってです、いんや食べん、食べんでからこれで死んでから、これはいよいよ過ぎたる事は及ばざるが如しという事になるでしょう。形の上においては同じようですけれども、違うでしょうが、自分がする修行と神様が求め給う修行とは違う。
一様には有り難い、有り難いがです、ね、お神酒が酒になってまりますと酔狂がでるようなもの、あーっ、有り難き、勿体無きも、んならまあ、かえっていいかげんなところで留めとかにゃんと、信心にもあんまりのぼしてはならん、適当にしとかにゃん、世間で申しますそう言うそれとは全然違います。ね、神様が求め給うところの修行はいわゆる、せんでおいてから、ね、これは本当に日頃目を見張るような修行をする人があります、かと言うとさっきの学校の先生じゃないですけれども、やっぱり人間ですから、いよいよの所ではがたっと失敗してから信心を落としてしまう人がある、これでは、もう及ばざるが如しでしょうが、ね、結局自分なりの信心を一遍とう、確実に自分のものにして行くという事になからなきゃいけません。それが、ならいつまでたっても同じであってはなりません、ね、段々、それが良い信心に良い信心に進んで行かなければなりましょう、ね。
信心、まあ、けれどもここで思います事は、少しぐらい、神様からです、それはひどすぎる、もうその次は神が受け取らんと仰るような修行でもね、させて頂けれるというような、その、いこうと言うような意欲が本当に有り難いと思うんですね。けれども、そこんところを、そう言う元気はいいんですけれども、やはり、その教えに忠実で、それを見極めして行きませんとやっぱりそういう結果になりますですから。
二、三日前、学生会の方達が、まあ、学生会の有志の人たちばかりで、ご本部参拝を思い立った、もう何ヶ月も前からずうっと計画をして、そして、もう十何日間の間で自転車で参拝しようと言うのである、本当に素晴らしい(       )、ね、本当に若手でなかなければ出来る事じゃないと思う。
先日もあちらで額室でお届けがありましたから、それは私が御結界に座った時にしなさい、と言うても、昨日、学生会の新聞の編集の方達が皆さん、いわゆる、おそらく徹夜でやってるだろうと思うんですが、新聞に掲載したいから、いよいよ、そこをはっきりしたいから、という訳なんです。もう近いうちにお許しを頂けれれば実行に移ろうと言うわけである。
本当に今朝、私その事をお願いさせて頂きよりましたらですね、ただいま、「過ぎたるは及ばざるが如し」ということをいただきました。そして、そのお神酒がお酒になるという事も頂きました。
一つの、まあ、真似の出来んような一つの話題にはなる。話題にのぼっただけじゃ何もならん、神様に受けてくださらなければ、ね、ただ、若さに任せてと、という事ではいけないという事が分かります。同時に私、例を取って、さっき学校の先生の例話をお話し申しました、もうこれなんかは私の年頭からもう忘れ去れておる事でございました。けれども、しきりにそのことを頂くんです、素晴らしい、親先生は素晴らしい、教育者の鏡のように、言うなら、言われて、それこそ、表彰でもされるなら親先生がされなければなるまいとふうだったけれども、それこそ、普通なもんでん失敗せんような事でがたっと失敗してしもうて、ね、学生には学生の本分がある、学生には学生らしい信心がある、それを分かっとくだけではいけんから、でんといったような事をです、たとえば、自転車でご本部参拝をするといったような事はこれはもうご機感に叶わん事を感じました。
これは学生会だけのことではありません、私共がいよいよ、熱烈のあまり、ね、過ぎたるでは及ばざるが如しという事になります。けれども、その勢いは私は本当に尊い物だとこ言う思います。だから、みんなも、いわゆる、そういう一つのちょっと過ぎたるといわれるぐらいな信心を頂きたいと思いますから、そこんところを調子をです、どこに置くかというと、神様が求め給うと言うものに打ち込んで行かなければならないという事であります、ね、神様が求め給うという修行ならばです、もう、どれだけ打ち込んでも、これは過ぎたるという事はありません、ところが、いわゆる、自分の我情、自分の思いで、ならさせて頂くことはそれはいかにも立派なようであっても、生身をもっとりゃ失敗する事もある、返って及ばざるが如しという事にもなる、ね。
教祖の神様の現になさった修行と言うのは、どこまでも、ね、此の方の行は火や水の行ではない、家業の行と仰る、家業の中に本当の修行を見い出して行こうと言うのである、なら火や水の行がいけんと言う意味じゃない、火や水の行でもいとわんと言うようなです、スイカの行もいとわんと言うような、その迫力は尊い、その迫力をです、神様が求め給うところの火や水の行であるとするならば、それはいとうてはならん、それは辞退してはならん、当たりざわりしてはならん。
どうぞ、私共が過ぎてはならん、けれども、神様が求め給う修行ならば、これは徹底して頂きぬかせて頂こうと、それは人が笑ろうても、ね、悪口を言われても、ね、それこそ、石にかじりついてでもそれを辛抱しぬかせてもらおう、頂き抜かせて頂こうと言う信心、ね、教祖の神様のご信心はそう言うご信心であると思う、こう言う事には過ぎたるという事になるのでございますから、ね、一つ過ぎたるは及ばざるが如しという事を間違えてはなりません。
私共は、神様が求めてござると言う修行を本当に見極めさせて頂いて、それを本気でやり抜こう、頂き抜こうと言う信心。
例えば、若さには流行る、流行った信心ではいかん、ね、どこまでも自分の周囲の、いわば、調子と言うもの、ここで言うなら、私の、私の信心の調子にぴったり添うたもの、おうたものでなからなければならん、それでいて神様が求め給う修行にいつもお応えできるところの元気な心、にはその辺がなかなか難しいのである、もうちった、それこそ、神様が求め給う修行ならばもうどげなん修行でもさせて頂こう、言う、それが余ってです、自分で求めてする修行の場合、そう言う時に多いにして過ぎたる、いわゆる、神様が受け取らんといったような修行になりかねないのでございますから、その辺を注意が必要であると思うんですね。
                            どうぞ。